生命の形態学より 三木成夫

”生命の形態学”

という本に偶然出会った。多分、何年かかけてじっくり読む本の一つになるだろう。

調べたら著者は 解剖学・発生学者 三木成夫 とあった。

前書きの谷川俊太郎さんの言葉を借りると

”身体を生命の発生にまで遡って語ろうとする三木さんは、学者であると同時に英語で言うvisionaryという名が相応しい”

学問・学術書アレルギーの私でも興味をそそられる。

生物の細胞レベルの進化の話が、人類の意識の変遷をも含んでいたり、内臓諸器官と外界の繋がりは自然環境から宇宙に及ぶ繋がりの広大さにどっぷり浸ってしまって”身体ってすげーっ”て夜中になってしまった空間で独り言を呟く日々です。

この本は抜きで引っ張り出して紹介するにはすごく難しいのですが、

本来、働く、仕事、動く、という事が時代、環境の変化とともに身体と呼吸にどういう変化をもたらしたか日常レベルで思い巡らすことができるので書いて見たいと思います。

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以下抜粋

今日の世相では

”息を詰める”労働が”息を抜く”レジャーによって補われるひとつのパターンができあがあっている。それは、あの禁断の木ノ実以来、いわゆる”額に汗して働く”という表現の中に、端的に示されるが、ここで我々はそれ以前の、言い換えれば、額に汗することのなかった先史の日々を振り返ると、そこでは『仕事』と『呼吸』の呼吸の見事な調和があったことを、否応無しに、見せつけられるであろう。というのは、彼らの日常生活が、他ならぬ『唄』によって支えられた。と見られる、様々な事情が指摘される。

我々が唄うとき、そこには『呼気』と『吸気』の、極めて自然なリズム波が描き出されるであろう。言い換えれば唄とは、ひとつの表情を持った呼吸ということになるのだが、大抵は、この呼気の相に一致して作業の手が進められ、呼気の相でその手が休められる。この休みは、したがって唄の節と間の小休止pouseに相当することになるが、一般に『間』と呼ばれるものは本来この空間、すなわち声と手を休める「呼気』の位相から、それは生まれたものではないかと思われる。こうしてみれば、唄を伴った作業とは、呼吸のリズムと動作のリズムが見事に一致した、文字どうり互いに”間のあった”もの、ということになるが、そこでは、いわゆる息のあった者同士の日常生活に見られるような”間違い”もなければ”間に合わせ”の努力もいらない。

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・魚類の鰓は、腸管の初めの部分が皮一枚を被って、顔から頸にかけて露出したものである。この腸管部は、その規則的な律動によって水呼吸を行うが、やがて上陸とともに、その呼吸の場はこの部の後端の床から突出した腸の袋。すなわち肺に譲り渡し、自らは呼吸と直接関係のない、顔面から頸部にかけての様々の構造に変身する。例えば鰓の筋肉は、顔面から咽頭部の諸筋肉に変わり、それは”表情”から”発生”にいたる心情表現の機能にたずさわる事になる。胎生32日から38日にかけて、胎児に見られる鰓の形象はこうした変身を始めるが、その模様は、現存の魚類から両生類・爬虫類をへて哺乳類にいたる一連の動物を比較解剖て、それらを胎児の各段階と照合すれば自ずから明らかになる。

要約してご紹介するのが難しいので興味持たれた方は是非お読みになってください。

学術書だと嫌煙するのは勿体無い、私には、等身大日常身体SF大作小説のような興奮があります。一家に一冊あって決して損はないどころか宝!では

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